「常識」という枠に囚われない思考を持ちたい
Publish2015/01/19(月)
今日は「常識」というものについて書いてみようと思います。
今回のことを書こうと思ったきっかけは、妻からきいたあるエピソードがきっかけです。
実際のエピソード
そのエピソードというのが、飛行機であった出来事なんですが、海外に行っていた妻と長男が飛行機に乗って日本に帰るときにこんなことがあったそうです。
飛行機にお客さんが乗り込んでくる時に、ある日本人観光客が客室乗務員と軽くトラブルになっていたようです。
原因は「自分の席の上の荷物置場が埋まっていて、手荷物が置けない」というものでした。
それだけ聞いたら、「それはちょっと嫌だな」と思いますが、実際には置くスペースは他の席の上とかにけっこうあったみたいなんです。
でも、その日本人観光客は「自分の席の上のスペースに荷物を置く」ということにこだわっていて、客室乗務員さんにも「席の上におくのが常識でしょう!」と憤慨していたそうです。
その話を聞いて僕は「置くスペースがあるなら別に他の席の上でも置けばいいやん」と思いましたし、「そんな事で怒るのも如何なものかな」とも思ったわけです。
でもそれよりもこれはあかんぞと思ったのは、自分の「常識」というものさしで海外の人にその主張を通そうとしたところにあると思います。
より柔軟に状況を判断できる考え方を。
このエピソードから思うのは、そもそも海外の人に日本の(ここではこの日本人観光客がいう常識が日本では通用する常識という前提で話を進めます。)常識が通用する訳ないと思うんですよね。
その地域にはその地域なりのルールや慣習があり、常識のようなものが全世界で共通しているわけではないということです。
そう考えると、自分の常識というものさしをどこでも共通のルールであるかのように錯覚してその常識を通そうとするのは傲慢であると言わざるを得ません。
そこで考えるわけですが、この「常識」というものに囚われていると視野が狭い状態で非常によくないと思うわけです。
常識というルールがあることによるメリットは、いちいち色々な事をその都度決めていく必要がなくなるという点があるかと思います。
「これはしてはいけない」とか、「これはこうするものだ」という事が決まっていれば、それについて考える必要がなくなって物事をスムーズにすすめることが出来ます。
そういう点で考えると「常識」はいいのですが、その前提がそもそも違う場合にはあまり意味が無いですよね。
今回の場合のように、日本と海外というバックグラウンドが明らかに違う場合は、常識で考えるのではなくその場の状況に応じて柔軟に考えることのほうが大切かと思うわけです。
常識が駄目ということではなく、TPOに応じた柔軟な思考で判断できる頭を持ちたいなとこのエピソードを聞いて思いました。