知り合いバイアスについて考えてみた
Publish2014/12/23(火)
先日から気になって様子を見ている某ビンゴの記事があるのですが、その本編とは違う部分で面白い事が垣間見えたので、その事について書きます。
件のブログの内容については、色々な人が色々な意見を言っているので、そちらを参考にしてください。
この記事ではその事については触れません。
問題が多そうな記事でも、知り合いには一定数の共感が生まれている
まず、この記事を僕の地点から観測していると「全く同意できない」「どうでもいい。あほらしい」というような意見が大多数でした。
記事を書いている人の知り合いがほぼいないような感じだったのもありますが、多くの人はその文章のみで判断して意見を言っている感じです。
その流れを見ていて、僕もまあ当然の流れかなと思っていたのですが、追加燃料が投下されたくらいでその方のFacebookでの書き込みを偶然見る事になったんですが、そこで交わされているやり取りがなかなか興味深いものでした。
これまで見た多くの意見とは全く異なり、「よく言った!」「さすが!」のように賞賛している人もいるくらいです。
おやおや、これはいったいどういうわけだろうと考えていたんですが、この擁護意見とも取れる人を見ると、おそらく書いた人を実際に知っている人達っぽいなと思ったわけです。
Facebookの友達なので、まあそういう事なんだろうという推測ですが、おそらくは書いた人本人の人間性やキャラなんかもある程度分かっているという事なんでしょう。
僕はどっちがいいとか言うつもりではなくて、単純にこの知っている人はある程度というかけっこう理解を示している状態が面白いなと思ってみていました。
渦中の人達の中にも、実際にその方を知っている人がいたりしているようで、そういう人達も比較的理解のあるスタンスだったのも面白いと思った理由の一つです。
「人は何かを判断する際に、その人の人間性やキャラがイメージできると、内容が少し攻撃的なものだったりしても比較的理解を示して共感する事ができるのではないか」という事を考えていました。
この事をTwitterに書いていた時に、Fさん(あえて伏せ字にしてます)が「知り合いバイアス」という表現をしてて面白いなと思ったので、このタイトルにも使わせてもらってます。
要はこの「知り合いバイアス」がすごく魅力的だなと思った次第です。
きつい言いそうになる時に知り合いバイアスを他者に向けてみるといいように思う。
本人を知らない人が批判をしていた部分は、まああの文章だと突っ込みどころが多すぎるし、当然と言えば当然な感じですが、ある程度話しが大きくなってくると記事自体の批判というよりも書いた人への人格否定みたいなことが起こり始めます。
僕はこれがよくないなと思うんですよね。
罪を憎んで人を憎まずではないですが、いくらゴミみたいな記事を書いたからといってその人が全て否定されるような流れになると見ていて辛くなります。
記事が褒められる内容ではないものであったとしても。
そんな状態を解決する一つの方法として、「知り合いバイアス」を擬似的に発動させてみてはどうかなと思います。
例えば、ちょっと過激に批判しそうになった時に、その人が知り合いだったらとしたらどういうだろうと考えてみるとか、Facebookの場合であれば投稿を見られるとしたらそういう風に書くかなと考えてみるとか、そういう事です。
たぶん知り合いバイアスを働かせると、その書こうとしていた内容よりも若干理解を示す事もできるだろうし、言い方にも優しさがでてくると思うんです。
悪い事は悪いという事は必要ですが、必要以上に相手を傷つけるというのも美しくないと思います。
そんな時こそ「知り合いバイアス」。
めっちゃ偽善的で反吐が出るかもしれませんが、いつでも相手を思いやる気持ちや共感できないまでも理解をしようとする姿勢があれば、世界はもっと優しくて楽しい空間になるんじゃないかなと思うんです。
殺伐とした世界よりも、相手を思いやる優しさに満ちた世界で生きていたいなと思うので、意見がきつくなりそうな時に知り合いバイアスを働かせてみるという事をしていくといいなと思いました。