「このくらい言わんでも分かるやろ」という思考の危険性
Publish2015/04/06(月)
この前「そういえば」と思った事があったので書いておこうと思います。
とあるサラリーマンの会話から
そのきっかけになったのが電車内でのとあるサラリーマンの会話。
そのサラリーマンとおそらく同僚と思われる人との会話が、別に聞き耳を立てたわけではないのですが話が耳に入ってきました。
どうもそのサラリーマンは同僚に伝えたい事がうまく伝わっていなかったようで、「このくらい言わんでも分かるやろ」といっていたんですね。
たぶんそんなに深く考えてなくて言ったんだと思うんですけど、それを横で聞いてて「これは違うよなー」と思ったわけです。
サラリーマンの言いたい事も分かるんですが、ちょっと考えてみましょう。
思い込みとか常識とかは「自分の物差し」
まず、僕が常に思っている事のひとつに「自分の物差し」の基準を人の基準として置き換えて考えないようにしようという考えがあります。
これは、自分の考える「常識」と世間の人の考える一般的な「常識」、そして会話をする人の「常識」は同じではないからです。
共通する部分や一致する部分もあるでしょうが、違うものだと考えておく方が無難です。
人が生きてきた環境や、慣習などは人によって異なります。
関西という狭い地域でさえ、京都と大阪と神戸では言葉や文化も違うものがありますし、もっと大きく見れば日本と世界の他の国ではさらに大きな違いがあります。
自分の主観や常識を基準に話を進めると、その基準自体の認識が異なっていればどこかでそのズレが問題になってきます。
そう考えると、自分の基準で他者を判断する事がいかにいけてないかという事が分かりますね。
他者を尊重する寛容性をもって生きていきたい
あと、自分基準で他者と話をする場合、その基準を受け入れられなかったりすると、「なんでこんな事も分からへんねん」というような攻撃的な感じになったり、もっと進むと相手に対する嫌悪感や憎しみのような感情を抱く危険性があります。
これはすごく当然な事だと思うんですが、自分が「そういうものだ」と思っている事を人から「それは違う」と否定されてうれしい人はいないと思います。
言った人も言われた人も、自分の主観に沿って話をしているだけなんですが、その根底にあるのは自分の価値観を重視する姿勢です。
こういう感じで他者の思考に対する寛容性や配慮がない状態になると、マイナスな事しか起こらないと僕は思っています。
そのためにも、まずは「自分自身の常識」を基準にして話をする事がないようにしようと思うわけです。
そうする事で、自然と「相手はどう考えているのだろう」と思う事になるので、結果的に寛容性を手に入れる事になると思っています。
時にはその時の体調や気分で相手を思いやる余裕がない事もあるかと思いますが、そういう時でも「自分の常識を基準に話をしない」という風にすれば自然といい流れにもっていけるのではないのかなとかまで思うんです。
と、そんな事をサラリーマンの会話から考えていました。