人脈形成とか真面目な顔でいう人を信用できない
Publish2014/12/22(月)
今日は今まであまり言ったことがなかったけど、言わずにいれない出来事が起こったので書くことにします。
Facebookで金曜日に書いたんですが、僕が行ってるワーキングスペースで「僕はもう人脈形成が完成したから交流会に行く必要がない」というような事を話している人がいました。
いろいろな方向から突込みどころのある事案ですが、これはひどいなと思ったと同時に色々考えさせられるきっかけにになりました。
そもそも人脈という言葉が嫌い
この言葉を聞いてある意味面白かったわけですが、その面白かった理由を考えてみると「それはない」と思ったからに他なりません。
人脈がすでに完成しているということは、これから誰も必要ないという事になり、未来に対する可能性を否定しているわけで、その視野狭窄ぶりには失笑しかないわけです。
というか、僕はそもそも「人脈」っていう言葉を大真面目に言うような人が嫌いなんですよね。
人脈という言葉を好んで使う人はけっこういますが、その言葉尻通りに捉えていない人はともかく(いい悪いは別)、その言葉通りに他者を利用して自分の利益を得ようとする人がいて、その考え方が嫌いだというのがその根底にあります。
多くの「人脈」って好んで使う人は、そういう傾向が強いように思います。
交流会に参加して使える人を物色し、自身の人脈として活用するって感じですよね。
なんだかそういう考え方っていうのは、人をモノとしてしか捉えていないように思えますし、他人の力で自分を誇張しようとする輩などは論外だと思うんです。
勝負するのなら自分の力で勝負すればいいと思うし、仮に他人が力を貸してくれるのであれば自分の要請で動いてくれるのではなく、その人の好意で動いてくれるのであれば、それはその人の魅力なんじゃないかなと思うんです。
逆に考えると、どういう人が信用できるのか、どんな人になりたいのかが見えてくる
悪い見本をみると、逆説的にいい場合というのはどういうものかということが見えてきます。
人脈ってやたらいうような人はどう考えても好きになれないし信用できない。
でも、世の中には何も言わなくても人が進んで協力をしてくれるような人もいます。
そういう人達は人脈形成うんぬんとか言ったからそうなっているのではなく、その人自身の行動が周りにプラスの影響を与えていて、結果的にいろいろな人にサポートしてもらえるようになっている。
そう思うんです。
他者の力を利用しようとする人にはその力は集まらず、他者のために力を使った人にその力が集まってくるという状態です。
そして多くの場合は、これが王道というか普遍的な何かなんだろうなと思っています。
自分はどうありたいかを考えると、前者ではなく後者の方が好きです。
ということで、前半は少し毒づきましたが、何が言いたかったのかというと、常に真摯な姿勢で相手に接すること、見返りを求めない行動がやはり大切だなと、そういう事を思いました。
追加で考えたこと。見習う点もある
本来ならここだけで終わってもいいかなと思うんですが、悪い点だけ指摘して終わるのも少し卑怯な気がするので、あえてこの場合の見習うべき点も考えてみました。
「人を利用する」ということは嫌いですが、「自分が思っていることを恥ずかしげもなく自信満々に言い切れる」という部分は、純粋にすごいなと思います。
僕の場合は、「まあ普通に考えたらそうやろ」と思うことでも、言い切ったりしないようにしている部分があります。
それはその言葉に自信がないからという事ではなくて、人によって取り方が違うこともあるからすべての人がそう思っているわけではないと思っているからです。
言い切る場合は、それこそ「絶対的にそうである」という裏付けと確証がなければ言えないかなとも思っています。
この方の場合はそういうところをたぶんそこまで考えてなくて、言い切っちゃってると思うんです。
でも、そこまで言い切れるのなら本当にそうなのかもしれないと思う人もいるわけで、変な説得力を持つことにもつながるんじゃないかなとも思うんですよね。
言葉の力は強いので、言い切ることによる説得力の増加というのはあるわけですし、そういう点ではこの強気な姿勢というのはある意味見習う点ではないかと思います。
性格的にそうはなれそうにもありませんが、ひとつの方向性として面白い考え方かなと思います。
この件も含めて、年末は色々な面白い話がそこかしこで噴出していて非常に興味深いです。
年の瀬という時期特有の空気というか非日常感がそういうものを誘発しているのかもしれません。
まだ年が明けるまで日数はありますが、まだまだ楽しめそうな気配を感じています。