験を担ぐことと思い込みの力について考えてみた。
Publish2016/05/30(月)
今日は先日あったエピソードから、「験を担ぐ」ということは、自分の意識を「これでうまくいく」と思い込むことで得られる力なんじゃないかなと思ったので、そのことを書きます。
天ぷらを食べるとかまずにしゃべることができる
今日なぜこんなことを書こうかなと思ったかというと、先週末に高槻市のPTA総会でしゃべる機会がありまして、その時に役員の人と話した内容がきっかけです。
知っている人は知っていますが、実は今高槻市のPTA協議会の副会長をしています。
副会長なので、今年度の活動計画の読み上げの担当が僕になりまして、120人くらいの前でしゃべるということになったわけです。
しゃべると言っても、自分で考えた挨拶をいうわけでもない決まっている活動計画のスケジュールを読み上げるという役なので、間違って読まないこと、かまないようにすることが注意点になります。
そんなことを考えていて、一緒に副会長をしている方と始まる前にお話をしてたんですが、その時に「前日の夜に天ぷらを食べたらかまずに喋れるって言いますよ」ということを言われました。
理由を聞いてみると、天ぷらの油でしゃべる筋肉が滑らかになるからかまないということのようでした。
「そんな馬鹿な」と聞いた時は思っていて、まあ話を盛り上げる時にこういう験担ぎや迷信のようなネタはそこそこ盛り上がるなとは思いました。
たまたまお昼に天ぷらを食べたのでそのことを言うと、タイミングがいいとか、それなら今日うまくいきますねとか、結構盛り上がったので話のネタとしてこういう系は意外と外れないなとは思いました。
世の中に溢れる迷信やジンクスといった類の情報について
というところまでは、よくある話だと思うんですが、そのことを帰りに自転車を漕いでいる時に思い出していたんですが、ふと「これって本気で信じてる人って出てくるのかな?」ということを考えてしまいました。
今回のような迷信っぽい話は、比較的いろいろなところで聞くことができる、いわゆる信ぴょう性の低い情報なので本気で考える人とかいなさそうやなと思ったわけですが、同時に100%そうだともいいきれない問題もあるので、こういう話を間に受けちゃう人もいるんだろうなと考えました。
それで、そういう人たちの行動などを考えてみたんですが、たとえば前述の天ぷらの場合だと、きっとそういう人たちは前の日に天ぷらを食べちゃうんでしょうね。
そして、それで自分が納得できるように喋れた場合、自分が上手く言えたことが理由なのに、「上手くいったのは天ぷらを食べたからだ」と思い込んでしまうかもしれません。
というか、きっとそういうふうに考えると思うんです。
そして、この「上手くいった体験」によって、その情報は自分にとって価値のある信ぴょう性の高い情報になっていくと思います。
それでうまくいくならそれでもありなんじゃないかなと思う
こういうことを考えていた時に思ったのは、「その情報の真偽はともかく、その情報を信じること、思い込むことによって雑念を払拭し、精神的な強さを手に入れること」ができるのであれば、それはそれでいいんじゃないかなと思いました。
こういう考えって多分宗教の基本的な部分に類似している部分だと思うんですけど、人の心の弱い部分を補填する類のもので、それ自体よりもそれを盲信的に信じることによって得られる「迷いのない心」を得られるメリットがあります。
話を天ぷらに戻しますが、科学的に天ぷらを食べることと、しゃべりでかまないことに因果関係があるということはないわけです。
でも「天ぷらを食べたからもうかまへん」と思い込んでいると、「噛んでしまうかもしれない」という不安から解放されるので心がリラックスできる余裕を持つことができ、その結果普段通りの自分の力もしくはそれ以上の力を発揮するということも考えられます。
大切なのは、その情報が正しいものであるかどうかではなく、その情報を信じることで得られる平常心じゃないのかなと思いました。
まとめ
お昼に天ぷらを食べた僕は、信心が浅かったせいか結構噛んでしまいましたが、仮にこれが喋らずにうまくいった場合は、もしかしたら次からも人の前でしゃべるときは天ぷらにしようと思うのかもしれません。
こういう「あの時こうやったからうまくいく」という成功体験が験を担ぐと言うことの原点なんだろうなと思います。