自動運転車の普及に期待したいと思った話
Publish2016/03/28(月)
今日は僕が早くこの世界で実現してほしいことの中でも上位に入る関心トピック「自動運転車の普及」について書きます。
この記事を書こうと思ったのが、関空からの帰り道で間違って西宮に行ってしまって、自分がぼーっとしてたとはいえこういうミスとかも人由来のミスやなと思ったことがきっかけです。
(ちなみに、いつもとなんか道が違うなと確信したのは、尼崎が過ぎたあたりなので自分の馬鹿さ加減に呆れています。)
いつまでもなくならない携帯電話で電話しながら運転する人
きっかけはただの道の間違いですが、その分運転する時間が長くなって色々と考える時間ができました(プラス思考)。
そこで考えていたのが、自動車の自動運転が早く普及してほしいということ。
道を間違えるというミスも減りますが、それ以上に今の時代のクルマ社会の問題点である「携帯電話で電話しながら運転する人」という存在がなくなるには自動運転しかないと思うわけです。
運転して帰る道すがらでも、未だに電話をしながら運転する人を何人も見かけました。
運転中の通話は法律で禁止(平成16年の道路交通法改正で携帯電話使用の罰則強化)されており、違反すると罰則があります。
そんなことは免許の講習で聞くはずなので知らない人がいないはずもないわけですが、それでも人は自分の都合で運転中に通話をしてしまうわけです。
急ぎの用事など理由はもちろんあるでしょうが、それにしてもしてはいけないことだと自覚してしているでしょうから、している人も良心が痛んでいるはずです。
いろいろ考えてみても、ルールで決まっているからといってもそれぞれの主観や都合を優先させることがある以上、きっと運転中の通話はなくならないと思います。
そもそも、なぜ運転中の通話が危険なのかというと、運転中に通話することで集中力が切れ、注意が散漫になり、交通事故の原因になる可能性が高まるからなわけです。
であれば、自動運転のように、そもそも自分が運転をすることがなくなれば危険ではないわけですから、自動運転車が増えればこのルール自体が不要になるわけですよね。
余談。スマホのながら歩きも絶対になくならない。
ここでちょっと話が逸れますが、「ルールで決まっているからといってもそれぞれの主観や都合を優先させる」例としては、スマホのながら歩きもあり、こちらもきっとなくならないと思います。
「してはだめ」という事を啓蒙することはもちろん大事ですが、それでも人が人である以上スマホのながら歩きもきっとなくならないんだろうと思います。
ここで考えるのは、人自体に働きかけることではなく、スマホのながら歩きをしていても問題がない形の技術革新を目指す方がいいと思うんですよね。
例えば、スマホのながら歩きの問題点の一つは視線を下に落とすことと画面に集中することによる注意力の散漫にあるので、網膜をディスプレイにするような形で通常の視線に画面を投影させるような形のデバイスや技術が開発され、普及することで問題は改善するように思うんですよね。
高齢者によるアクセルとブレーキの踏み間違えなど
ちょっと話が逸れましたが元に戻します。
車でよくある問題点としては、最近だと高齢ドライバーによるアクセルとブレーキの踏み間違えなどの原因でお店に突っ込んでしまうという事件が多発しています。
この問題にはいろいろな理由がありますが、問題の一つは高齢者が車を運転しなければいけない環境ということもあります。
地方の場合だと特に、車がないと生活が成り立たないような状況もあります。
その中では車を運転しないという選択肢を選ぶことができなくなってしまいます。
また、高齢者は「これまできちんとできていた自信」があるので、自分の老化による運転技術不足という現実を見ることはできなくなってきます。
だからと言って他の人が「おじいちゃんもう運転するの無理やからやめとき」と言っても聞き入れることも難しいでしょう。
このようないろいろのことを考えれば、やはり「車の運転は人がすることが当然」という常識自体が変わるような「車は自動で目的地まで連れて行ってくれることが当然」という常識に変わることが必要があるわけで、そのための技術革新と普及をしてほしいと思うわけです。
車は便利なものと同時に非常に、危険な凶器になりうるものだということ
僕が自動運転についてここまで考える理由は、やはり車が便利なものであるというメリットと同時に、人の命を奪うことになる凶器にもなる存在だからというのが一番大きいです。
運転中の通話や危険な運転をするドライバー、飲酒運転などの最初からルール度外視の運転者など、あまりに人が原因になって他者傷つけられる場合が多すぎると思うんですよね。
なので、人に期待して世の中が良くなるようにしていくことと並行して、技術革新などの既存のルールを変える行動によって世界がよくなっていくことというのが重要だなと心から思うんです。
産業革命から生まれた自動車という存在は現在の生活に欠かせないものですが、そろそろその転換期が来ていて、技術的にも実現可能な時期に来ているのであれば、少しでも早く普及してほしいなと思うんです。